2025年12月16日火曜日

谷地城と谷地

国土地理院の航空写真と、

鈴木聖雄さんの谷地城の復元図

『山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集』,山形県教育委員会,平成8年3月,pp120

とを重ね合わせ、かつて谷地城は谷地のどのあたりにあったのか、谷地城は谷地の街が形成されていく過程でどのような位置づけがなされるかを、現在考察している。

 


 


鈴木さんの復元図にある寺や神社の位置と道を基準に復元図を拡大縮小して航空写真の寺や神社に合わせてある。航空写真には手を加えていない。
 

しかし、細かに見るとまだ復元図と航空写真とにはずれがある。

想定図としてみてほしい。

現在の谷地の街並みは谷地城の影響が多々あるように見える。 

鈴木さんは明治初期に作られた土地の利用状況や「字」ごとの略図である字限図を丹念につなぎ合わせ、現在の町の状況も加味して谷地城の復元図を作成された。

また鈴木さんは家臣の配置も他の論文で考察している。この論文を元に、谷地城と家臣の配置とを近日中にあらためて紹介したいと思っている。
 



 国土地理院 地図・航空写真閲覧サービス

https://service.gsi.go.jp/map-photos/app/map?search=photo 

 

 

2025年9月28日日曜日

十郎長久の遺児

十郎の遺児についての伝承は複数残っているがどの伝承も信憑性が乏しい。それらの伝承のうち、長久の長弟の齋藤伯耆守家に伝わる伝承から、次のことを紹介する。

齋藤伯耆守家には先祖は家老だったとつたわっている。
長久の息子は一旦叔父の齋藤伯耆守の養子になって姓を齋藤に変えた後、最上義光の四男で山野邊城主(現:山形県東村山郡山辺町)の山野邊(最上)義忠に城代家老として仕えた(1)。
義忠は最上家取り潰しの後、水戸徳川家に家老として召し抱えられた。その折、長久の息子も水戸に移り住んだようである。
江戸時代に水戸徳川家の江戸在住の齋藤氏の使いのものが齋藤家系図を取りきたという記録がある(2)。これは水戸に白鳥の子孫がいたためと考えられる。
茨城県日立市に義忠の子孫を城主とする助川海防城があった。ここに齋藤六左衛門久政の墓があり、その墓の墓誌に次のように文字が刻まれている(3)。

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先考姓藤原氏諱久政久弘君之第三子也稱六郎左衛門本氏白鳥白鳥十郎蔵人長久居出羽國村山郡谷地食二十二萬石天正年中興最上義光戰而滅子久吉尚幼繼外戚稱伯耆守属最上義光食五千石文禄中属最上氏別族山野邊義忠寛永中以大猷公命仕え水戸威公爲國老賜一萬石久吉之子忠頼稱一右衛門爲家老賜禄三百石世世相襲(以下略)

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山野邊(最上)義忠に長久の子が家老として仕えたとすれば、最上家家臣団への給付米を記載した最上家分限帳に載っている可能性がある。最上家分限帳は三種類残っているが山野邊義忠の一萬九千三百石の記載はあるものの、その家老のものと考えられる記載を見つけることはできなかった。ただ、分限帳に「谷地隠居 二百十四石」という記載がある(4)。谷地隠居とはどのような人物のことなのだろうか。

(1)小野末三,『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜-再士官への道程-』,財団法人 最上義光歴史館,1998
(2)『河北町の歴史 上巻』,河北町,1992 第四版,pp163-164
(3)神永敏子,『幕末水戸藩士の眠る丘・東松山薬師面墓地』,風濤社,1997
(4)国立史料館所蔵「宝幢寺文書」,『最上源五郎様御時代御家中并寺社方在町分限帳』

 

長久の埋葬地について

十郎長久の遺体を葬ったという伝承が残る場所は三ヶ所ある。

1つ目は現在の山形県西村山郡西川町横軸地区にある八聖山金山神社である。別当の大聖院と滝泉院はともに白鳥十郎長久の遺児兄弟が十郎長久の墓を守って住み着き、八聖山を再興したといわれている(1)。しかし、発掘調査をした記録を見つけることができなかった。

2つ目は山形県西村山郡河北町西里の根際地区にある通称「的場山」の山頂の経塚といわれる場所である。経塚には石が環状に配置されている。地区の伝承ではこの山に長久が弓の稽古のために的場を作ったとされている。的場山はその名の通り山頂付近は南北を残して平らに整地されている。
的場の近くには白鳥家の四天王とされ、長久の次弟とされる齋藤伯耆守大学の屋敷があって最近までその子孫が住んでいた。齋藤伯耆守家には的場山に長久の首が埋まっていると伝えられている。
伯耆守の子孫が1963年に山形大学の柏倉亮吉教授に依頼して発掘調査おこなった(2)。結果、遺骨は見つからなかったが銅板製の経筒の破片が見つかっている。

3つ目が山形県北村山郡大石田町の山中の地区の次年子である。次年子には旦那首(だんなぐし)と呼ばれている場所がありその場所には土で盛り上げられた塚が9基ある。地区には「殿さまが埋められている」という伝承が残る(3)。
1992年に川崎利夫により発掘調査が行われた(4)。その時に成人男性と見られる骨が見つかった(5)。
この骨を札幌医科大学の石田肇が鑑定したところ40代くらいの男性で骨格から身長約164cmの筋骨のたくましい人物であることがわかった。また大腿骨に10cmにわたって刃物傷があったそうである(3)。
地区に残る伝承や鑑定の結果からこの骨は白鳥十郎長久のものと推測できる。
次年子は火山であった村山葉山の麓にあり火山性の土壌が広がる場所にある。この土壌で450年近く土に埋まっていて人骨が残るかなどいう疑問などが残るものの、この場所での発掘調査で人骨が見つかったことは興味深い。より厳格な科学調査も含めてさらなる検証を期待する。

(1)宇井啓,「八聖山の奥羽鉱山檀廻について」,西村山の歴史と文化4,西村山地域史研究会,2002
(2)『西里の歴史ものがたり』,河北町西里地区公民館,1987
(3)平林叔子,『~白鳥十郎長久公~墳墓』,山形県北村山郡大石田町次年子圓重寺,2015
(4)川崎利夫,『次年子-中世遺跡の調査報告書-』,成生荘研究会 野の考古学談話会,1992
(5)川崎利夫,『出羽の遺跡を歩く』,高志書院,2001

山形城での乱闘の後の伝承

山形城で主君の白鳥十郎長久が誅殺されたのちに、最上勢と十郎に同行した白鳥勢との間に激しい乱闘が起きた。
乱闘の中、長久の遺体を守りながら山形城を抜けた谷地勢が一時隠れたと伝わる寺がある。
この寺は現在の山形市五日町にある長寿山静松禅寺である(1)。
山形城の遺構と現在の地図とを重ねた「城下町やまがた探検地図」(2)を見ると、長寿山静松禅寺寺は山形城の南方の三の丸の八日町吹張口(門)の外の、門に近い場所に位置している。山形城から逃れた谷地勢は山形城の南門から城を抜けて谷地に向かったと考えられる。
十郎の遺体は家臣の青柳隼人が最上川を使って運び出し、村山葉山の東側の山深い地区の次年子に葬られたという伝承が、次年子地区に残っている(3)。

(1)(3)平林叔子,『~白鳥十郎長久公~墳墓』,山形県北村山郡大石田町次年子圓重寺,2015
(2)「城下町やまがた探検地図」,城下町やまがた探検隊,2023

2025年8月16日土曜日

白鳥十郎長久誅殺について

 白鳥十郎長久は出向いた山形城内で討ち取られたことをしるした史料は見つかっていない。しかし、白鳥側から書かれた軍記物『天正最上軍記』や最上側から書かれた軍記物『最上記』ともに白鳥十郎長久は山形城内で討ち取られたと書かれてある。

山形城で長久が殺された後、白鳥勢と最上勢とで激しい乱闘があった。このことは伊達政宗が伯父の最上義光に宛てた書状から明らかになっている。齋藤長右衛門家に伝わる白鳥氏側から軍記物である『天正最上軍記』にこの乱闘の様子が載っている。天正最上軍記はいつ誰が書き記したものなのか、また内容の信憑性などより詳しい検証が必要であるが、長久殺害の様子を考察するよい題材と考えられる。
以下に天正最上軍記に記載されている長久殺害後の様子を現代文に直して簡略的に記載する。
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白鳥十郎長久は緋綴鎧を着て黒鹿毛の馬に乗り、つきそう八人の家老もそれぞれ馬に乗り山形城へ出立した。

山形宮町にさしかかったとき山形城からの使者が来て、家中の方々五百人は本陣に、ご側近の方々は二の丸に長久公は本丸にお入りください、という。さらに、本丸では長久公には城主義光からないないの話があります、ともいう。

一行は山形城につき、長久は一人本丸へと入った。側近八人も指示通り二の丸へ、家臣は本陣へと入った。

本丸では長久は盛大なもてなしをうけた。長久は泥酔するほどに酒を飲まされた。頃合いを見て義光は長久にないないの話があると奥の間に入った。長久も義光のあと奥の間に入った。奥の間には穴が掘られており長久は穴に落ちてしまった。穴に落ちて動きが取れなくなった長久は殺害されてしまった。

このころ二の丸にいた八人の側近は胸騒ぎを覚え主人になにか起きたのではと本丸に走り入ってみるとそこにはすでに殺害された長久が横たわっていた。本丸に入った八人に二百人の最上勢が襲いかかってきた。
長久の家臣の熊野三郎は五尺八寸(約75cm)の太刀で襲いかかってきた最上勢を切り散らした。また、長沼玄蕃、井澤虎之助らも3・40人を切り散らした。最上勢は八人も討ち取ろうとさらに襲いかかってきた。

本陣にいる白鳥家家臣十挺の大砲を打ち大勢の最上勢を打倒した。

ころを見て白鳥勢は山形城をぬけ天童に向かったが天童にも最上勢がひそんでいたため、行き先を原町村へ向かったところすでに原町にも最上勢がひそんでいた。そこで白鳥勢は萩戸原に向かった。萩戸原で白鳥勢と最上勢が対峙し戦いは三日におよんだ。白鳥勢は多くの最上勢を討ち取った。

その後白鳥勢は無事天童の愛宕山の裏をぬけ谷地城へ戻ることができた。

谷地では熊野三郎を大将として最上勢と対峙し大合戦となった。

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参考      鈴木勲・宇佐美貴子,『天正最上軍記・実録』,2010,町民講座テキスト 
            片桐茂雄 約編,『最上記』,最上義光歴史館,2009.3
            武田喜八郎,「山形殿(最上義光)宛の伊達政宗書状について」,歴史館だより,最上義光歴史館,2005.3

白鳥長久と最上家とのつながり

白鳥家と最上家とは婚姻を通じて強い結びつきがあった。 

白鳥十郎長久の妻は最上義守息女。最上義光の息子義康の妻は白鳥十郎長久の息女である。つまり白鳥長久と最上義光は義兄弟であり、白鳥長久と最上義光は互いの子の義理の親である。 

最上義光とその親の最上義守とが対立したとき、白鳥長久その立場から仲介者として最適だった。

伊達政宗の父の輝宗の妻も最上義守の息女で最上義光の妹の義姫である。白鳥長久と伊達輝宗は最上義守を外舅とする、同じ立場だった。 そのため白鳥長久は伊達輝宗とも良好な関係であり、最上義守と最上義光との対立のときは義守擁護の立場を取った。 

また白鳥長久は最上義守の娘婿であり最上義光の息子の義康の外舅という立場から最上家の内情に通じていたと考えられる。また、最上家の内情は白鳥長久を通じて伊達輝宗のも伝わっていた可能性がある。

白鳥長久の存在は伊達輝宗にとっては重要で、逆に最上家の内情に通じる白鳥長久は最上義光にとっては油断のできぬ存在だったと考えられる。

白鳥長久は最上義光の動きにも敏感だった。もし最上と白鳥とが合戦になったときには最上義光の背後から伊達輝宗が攻めるという懸念もあり最上義光は合戦以外の方法で白鳥長久を倒す手段に出たのではないだろうか。

 

 参考    青柳重美,「最上・白鳥両家の婚姻関係について」,山形県地域史研究,1994.2
           保角里志,『山形の城と戦国世界』,高志書院,2024.8,p72-73

 

 

2025年8月14日木曜日

白鳥家 家臣団

 天正最上軍記に記録されている家臣

四天王
    齋藤久五郎
    齋藤長右衛門(伯耆守大学)
    齋藤市郎左衛門
    青木孫左衛門
家老
    伊藤将監重村
    森谷大膳高友
    槙三郎右衛門国光
    和田六郎左衛門秀友
    森大太郎藤高
    阿部兵蔵盛重
    宇井半左衛門芳村
    槙結城貞
    井澤寅之助吉忠
    細矢大丞信安
    大場八郎左衛門義忠
    岡崎七郎右衛門重行
    後藤善孝芳実
    八鍬五郎左衛門重種
    仁藤大学信盛
    仁藤四郎左衛門芳重
    大久保内膳助秀角
    熊野三郎友重
    塩野熊之助重則
    長善寺右馬正一国
    石川右膳正利定
    黒沼玄蕃保秀

        ほか千軒の家臣がいるが名は不詳。

信長拝謁に同行した家老
    和田六郎左衛門秀友
    大久保大膳信秀
    熊野三郎友重
    四五修理介重則
    長善寺右馬之助国光
    仁藤大学信盛
    森大之進藤高
    仁藤四郎左衛門盛高
    八鍬太郎左衛門重種
    槙結城家貞
    森谷大膳高友
    長沼玄蕃保秀
    伊藤将監重村
        
   家老以外にも三百の臣を連れていた。

山形城に同行した家老
    和田六郎左衛門
    大久保大膳之介
    熊野三郎
    長沼玄蕃
    長善寺右馬正
    井澤寅之助
    塩村熊之助
    森谷大膳

・ほか、鉄砲百挺 大砲十挺 弓五十張 槍百挺を持っていったとされるため、これら武器を扱うだけの臣を連れていたと考えられる。


出典:鈴木勲・宇佐美貴子,『天正最上軍記・実録』,2010,町民講座テキスト

谷地城と谷地

国土地理院の航空写真と、 鈴木聖雄さんの谷地城の復元図 『山形県中世城館遺跡調査報告書 第2集』,山形県教育委員会,平成8年3月,pp120 とを重ね合わせ、かつて谷地城は谷地のどのあたりにあったのか、谷地城は谷地の街が形成されていく過程でどのような位置づけがなされるかを、現在考...