2025年8月12日火曜日

十郎の父「義久」の出自

 十郎の父、義久は茂木家に残る白鳥家系図に「十郎義久尊氏十二代義晴御サケハラ也」という記載がある(出典1)。この文は「義久は足利十二代将軍義晴の御脇腹(側室の子)」と考えられ、つまりは義久は足利十二代将軍義晴の側室の子ということになる。

鈴木勲・宇佐美貴子,『天正最上軍記・実録』より  
足利将軍は義の字を受け継ぐ。最上義光の義も足利氏より下賜されたものである(出典2)。義久の「義」も足利とのつながりがあるためと考える。当時、京で行われた蹴鞠の行事に白鳥の名が出ていること、室町幕府の政所代の蜷川(になかわ)氏に白鳥氏が昔の儀式や作法のことを尋ねたことがあったという記録があることから(出典3)、義久は出羽の地に来てからも京に登ることがあったと考えられる。また、白鳥家の家紋は山形県西村山郡河北町谷地の東林寺にある白鳥十郎の顕彰碑に刻まれている紋は「丸に二引き両」である。また、東林寺の紋も丸に二引き両で、住職によると東林寺で丸に二引き両を使うのは白鳥家に由来するそうである。丸に二引き両は足利家の紋でもある。 以上のことから、義久は足利家と何らかのつながりがあったものと推測できる。 

出典1: 『河北町の歴史 上巻』,河北町,河北町誌編纂委員会,1992.12,第4刷,p141-142および鈴木勲・宇佐美貴子,『天正最上軍記・実録』,2010,町民講座テキスト,p45出典2: 伊藤清郎,『最上義光』,2016.3,人物叢書,p30松尾剛次,「誉田慶恩『奥羽の驍将 最上義光』の見直しを通じて」,歴史館だよりNo20,最上義光歴史館,2013 
出典3: 保角里志,『山形の城を歩く』,2020.7,書肆犀,p189

 

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