十郎長久の遺体を葬ったという伝承が残る場所は三ヶ所ある。
1つ目は現在の山形県西村山郡西川町横軸地区にある八聖山金山神社である。別当の大聖院と滝泉院はともに白鳥十郎長久の遺児兄弟が十郎長久の墓を守って住み着き、八聖山を再興したといわれている(1)。しかし、発掘調査をした記録を見つけることができなかった。
2つ目は山形県西村山郡河北町西里の根際地区にある通称「的場山」の山頂の経塚といわれる場所である。経塚には石が環状に配置されている。地区の伝承ではこの山に長久が弓の稽古のために的場を作ったとされている。的場山はその名の通り山頂付近は南北を残して平らに整地されている。
的場の近くには白鳥家の四天王とされ、長久の次弟とされる齋藤伯耆守大学の屋敷があって最近までその子孫が住んでいた。齋藤伯耆守家には的場山に長久の首が埋まっていると伝えられている。
伯耆守の子孫が1963年に山形大学の柏倉亮吉教授に依頼して発掘調査おこなった(2)。結果、遺骨は見つからなかったが銅板製の経筒の破片が見つかっている。
3つ目が山形県北村山郡大石田町の山中の地区の次年子である。次年子には旦那首(だんなぐし)と呼ばれている場所がありその場所には土で盛り上げられた塚が9基ある。地区には「殿さまが埋められている」という伝承が残る(3)。
1992年に川崎利夫により発掘調査が行われた(4)。その時に成人男性と見られる骨が見つかった(5)。
この骨を札幌医科大学の石田肇が鑑定したところ40代くらいの男性で骨格から身長約164cmの筋骨のたくましい人物であることがわかった。また大腿骨に10cmにわたって刃物傷があったそうである(3)。
地区に残る伝承や鑑定の結果からこの骨は白鳥十郎長久のものと推測できる。
次年子は火山であった村山葉山の麓にあり火山性の土壌が広がる場所にある。この土壌で450年近く土に埋まっていて人骨が残るかなどいう疑問などが残るものの、この場所での発掘調査で人骨が見つかったことは興味深い。より厳格な科学調査も含めてさらなる検証を期待する。
(1)宇井啓,「八聖山の奥羽鉱山檀廻について」,西村山の歴史と文化4,西村山地域史研究会,2002
(2)『西里の歴史ものがたり』,河北町西里地区公民館,1987
(3)平林叔子,『~白鳥十郎長久公~墳墓』,山形県北村山郡大石田町次年子圓重寺,2015
(4)川崎利夫,『次年子-中世遺跡の調査報告書-』,成生荘研究会 野の考古学談話会,1992
(5)川崎利夫,『出羽の遺跡を歩く』,高志書院,2001
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