2025年9月28日日曜日

十郎長久の遺児

十郎の遺児についての伝承は複数残っているがどの伝承も信憑性が乏しい。それらの伝承のうち、長久の次弟の齋藤伯耆守家に伝わる伝承から、次のことを紹介する。

齋藤伯耆守家には先祖は家老だったとつたわっている。
長久の息子は一旦叔父の齋藤伯耆守の養子になって姓を齋藤に変えた後、最上義光の四男で山野邊城主(現:山形県東村山郡山辺町)の山野邊(最上)義忠に城代家老として仕えた(1)。
義忠は最上家取り潰しの後、水戸徳川家に家老として召し抱えられた。その折、長久の息子も水戸に移り住んだようである。
江戸時代に水戸徳川家の江戸在住の齋藤氏の使いのものが齋藤家系図を取りきたという記録がある(2)。これは水戸に白鳥の子孫がいたためと考えられる。
茨城県日立市に義忠の子孫を城主とする助川海防城があった。ここに齋藤六左衛門久政の墓があり、その墓の墓誌に次のように文字が刻まれている(3)。

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先考姓藤原氏諱久政久弘君之第三子也稱六郎左衛門本氏白鳥白鳥十郎蔵人長久居出羽國村山郡谷地食二十二萬石天正年中興最上義光戰而滅子久吉尚幼繼外戚稱伯耆守属最上義光食五千石文禄中属最上氏別族山野邊義忠寛永中以大猷公命仕え水戸威公爲國老賜一萬石久吉之子忠頼稱一右衛門爲家老賜禄三百石世世相襲(以下略)

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山野邊(最上)義忠に長久の子が家老として仕えたとすれば、最上家家臣団への給付米を記載した最上家分限帳に載っている可能性がある。最上家分限帳は三種類残っているが山野邊義忠の一萬九千三百石の記載はあるものの、その家老のものと考えられる記載を見つけることはできなかった。ただ、分限帳に「谷地隠居 二百十四石」という記載がある(4)。谷地隠居とはどのような人物のことなのだろうか。

(1)小野末三,『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜-再士官への道程-』,財団法人 最上義光歴史館,1998
(2)『河北町の歴史 上巻』,河北町,1992 第四版,pp163-164
(3)神永敏子,『幕末水戸藩士の眠る丘・東松山薬師面墓地』,風濤社,1997
(4)国立史料館所蔵「宝幢寺文書」,『最上源五郎様御時代御家中并寺社方在町分限帳』

 

長久の埋葬地について

十郎長久の遺体を葬ったという伝承が残る場所は三ヶ所ある。

1つ目は現在の山形県西村山郡西川町横軸地区にある八聖山金山神社である。別当の大聖院と滝泉院はともに白鳥十郎長久の遺児兄弟が十郎長久の墓を守って住み着き、八聖山を再興したといわれている(1)。しかし、発掘調査をした記録を見つけることができなかった。

2つ目は山形県西村山郡河北町西里の根際地区にある通称「的場山」の山頂の経塚といわれる場所である。経塚には石が環状に配置されている。地区の伝承ではこの山に長久が弓の稽古のために的場を作ったとされている。的場山はその名の通り山頂付近は南北を残して平らに整地されている。
的場の近くには白鳥家の四天王とされ、長久の次弟とされる齋藤伯耆守大学の屋敷があって最近までその子孫が住んでいた。齋藤伯耆守家には的場山に長久の首が埋まっていると伝えられている。
伯耆守の子孫が1963年に山形大学の柏倉亮吉教授に依頼して発掘調査おこなった(2)。結果、遺骨は見つからなかったが銅板製の経筒の破片が見つかっている。

3つ目が山形県北村山郡大石田町の山中の地区の次年子である。次年子には旦那首(だんなぐし)と呼ばれている場所がありその場所には土で盛り上げられた塚が9基ある。地区には「殿さまが埋められている」という伝承が残る(3)。
1992年に川崎利夫により発掘調査が行われた(4)。その時に成人男性と見られる骨が見つかった(5)。
この骨を札幌医科大学の石田肇が鑑定したところ40代くらいの男性で骨格から身長約164cmの筋骨のたくましい人物であることがわかった。また大腿骨に10cmにわたって刃物傷があったそうである(3)。
地区に残る伝承や鑑定の結果からこの骨は白鳥十郎長久のものと推測できる。
次年子は火山であった村山葉山の麓にあり火山性の土壌が広がる場所にある。この土壌で450年近く土に埋まっていて人骨が残るかなどいう疑問などが残るものの、この場所での発掘調査で人骨が見つかったことは興味深い。より厳格な科学調査も含めてさらなる検証を期待する。

(1)宇井啓,「八聖山の奥羽鉱山檀廻について」,西村山の歴史と文化4,西村山地域史研究会,2002
(2)『西里の歴史ものがたり』,河北町西里地区公民館,1987
(3)平林叔子,『~白鳥十郎長久公~墳墓』,山形県北村山郡大石田町次年子圓重寺,2015
(4)川崎利夫,『次年子-中世遺跡の調査報告書-』,成生荘研究会 野の考古学談話会,1992
(5)川崎利夫,『出羽の遺跡を歩く』,高志書院,2001

山形城での乱闘の後の伝承

山形城で主君の白鳥十郎長久が誅殺されたのちに、最上勢と十郎に同行した白鳥勢との間に激しい乱闘が起きた。
乱闘の中、長久の遺体を守りながら山形城を抜けた谷地勢が一時隠れたと伝わる寺がある。
この寺は現在の山形市五日町にある長寿山静松禅寺である(1)。
山形城の遺構と現在の地図とを重ねた「城下町やまがた探検地図」(2)を見ると、長寿山静松禅寺寺は山形城の南方の三の丸の八日町吹張口(門)の外の、門に近い場所に位置している。山形城から逃れた谷地勢は山形城の南門から城を抜けて谷地に向かったと考えられる。
十郎の遺体は家臣の青柳隼人が最上川を使って運び出し、村山葉山の東側の山深い地区の次年子に葬られたという伝承が、次年子地区に残っている(3)。

(1)(3)平林叔子,『~白鳥十郎長久公~墳墓』,山形県北村山郡大石田町次年子圓重寺,2015
(2)「城下町やまがた探検地図」,城下町やまがた探検隊,2023

十郎長久の遺児

十郎の遺児についての伝承は複数残っているがどの伝承も信憑性が乏しい。それらの伝承のうち、長久の次弟の齋藤伯耆守家に伝わる伝承から、次のことを紹介する。 齋藤伯耆守家には先祖は家老だったとつたわっている。 長久の息子は一旦叔父の齋藤伯耆守の養子になって姓を齋藤に変えた後、最上義光の...