白鳥十郎長久は出向いた山形城内で討ち取られたことをしるした史料は見つかっていない。しかし、白鳥側から書かれた軍記物『天正最上軍記』や最上側から書かれた軍記物『最上記』ともに白鳥十郎長久は山形城内で討ち取られたと書かれてある。
山形城で長久が殺された後、白鳥勢と最上勢とで激しい乱闘があった。このことは伊達政宗が伯父の最上義光に宛てた書状から明らかになっている。齋藤長右衛門家に伝わる白鳥氏側から軍記物である『天正最上軍記』にこの乱闘の様子が載っている。天正最上軍記はいつ誰が書き記したものなのか、また内容の信憑性などより詳しい検証が必要であるが、長久殺害の様子を考察するよい題材と考えられる。
以下に天正最上軍記に記載されている長久殺害後の様子を現代文に直して簡略的に記載する。
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白鳥十郎長久は緋綴鎧を着て黒鹿毛の馬に乗り、つきそう八人の家老もそれぞれ馬に乗り山形城へ出立した。
山形宮町にさしかかったとき山形城からの使者が来て、家中の方々五百人は本陣に、ご側近の方々は二の丸に長久公は本丸にお入りください、という。さらに、本丸では長久公には城主義光からないないの話があります、ともいう。
一行は山形城につき、長久は一人本丸へと入った。側近八人も指示通り二の丸へ、家臣は本陣へと入った。
本丸では長久は盛大なもてなしをうけた。長久は泥酔するほどに酒を飲まされた。頃合いを見て義光は長久にないないの話があると奥の間に入った。長久も義光のあと奥の間に入った。奥の間には穴が掘られており長久は穴に落ちてしまった。穴に落ちて動きが取れなくなった長久は殺害されてしまった。
このころ二の丸にいた八人の側近は胸騒ぎを覚え主人になにか起きたのではと本丸に走り入ってみるとそこにはすでに殺害された長久が横たわっていた。本丸に入った八人に二百人の最上勢が襲いかかってきた。
長久の家臣の熊野三郎は五尺八寸(約75cm)の太刀で襲いかかってきた最上勢を切り散らした。また、長沼玄蕃、井澤虎之助らも3・40人を切り散らした。最上勢は八人も討ち取ろうとさらに襲いかかってきた。
本陣にいる白鳥家家臣十挺の大砲を打ち大勢の最上勢を打倒した。
ころを見て白鳥勢は山形城をぬけ天童に向かったが天童にも最上勢がひそんでいたため、行き先を原町村へ向かったところすでに原町にも最上勢がひそんでいた。そこで白鳥勢は萩戸原に向かった。萩戸原で白鳥勢と最上勢が対峙し戦いは三日におよんだ。白鳥勢は多くの最上勢を討ち取った。
その後白鳥勢は無事天童の愛宕山の裏をぬけ谷地城へ戻ることができた。
谷地では熊野三郎を大将として最上勢と対峙し大合戦となった。
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参考 鈴木勲・宇佐美貴子,『天正最上軍記・実録』,2010,町民講座テキスト
片桐茂雄 約編,『最上記』,最上義光歴史館,2009.3
武田喜八郎,「山形殿(最上義光)宛の伊達政宗書状について」,歴史館だより,最上義光歴史館,2005.3
