2025年8月16日土曜日

白鳥十郎長久誅殺について

 白鳥十郎長久は出向いた山形城内で討ち取られたことをしるした史料は見つかっていない。しかし、白鳥側から書かれた軍記物『天正最上軍記』や最上側から書かれた軍記物『最上記』ともに白鳥十郎長久は山形城内で討ち取られたと書かれてある。

山形城で長久が殺された後、白鳥勢と最上勢とで激しい乱闘があった。このことは伊達政宗が伯父の最上義光に宛てた書状から明らかになっている。齋藤長右衛門家に伝わる白鳥氏側から軍記物である『天正最上軍記』にこの乱闘の様子が載っている。天正最上軍記はいつ誰が書き記したものなのか、また内容の信憑性などより詳しい検証が必要であるが、長久殺害の様子を考察するよい題材と考えられる。
以下に天正最上軍記に記載されている長久殺害後の様子を現代文に直して簡略的に記載する。
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白鳥十郎長久は緋綴鎧を着て黒鹿毛の馬に乗り、つきそう八人の家老もそれぞれ馬に乗り山形城へ出立した。

山形宮町にさしかかったとき山形城からの使者が来て、家中の方々五百人は本陣に、ご側近の方々は二の丸に長久公は本丸にお入りください、という。さらに、本丸では長久公には城主義光からないないの話があります、ともいう。

一行は山形城につき、長久は一人本丸へと入った。側近八人も指示通り二の丸へ、家臣は本陣へと入った。

本丸では長久は盛大なもてなしをうけた。長久は泥酔するほどに酒を飲まされた。頃合いを見て義光は長久にないないの話があると奥の間に入った。長久も義光のあと奥の間に入った。奥の間には穴が掘られており長久は穴に落ちてしまった。穴に落ちて動きが取れなくなった長久は殺害されてしまった。

このころ二の丸にいた八人の側近は胸騒ぎを覚え主人になにか起きたのではと本丸に走り入ってみるとそこにはすでに殺害された長久が横たわっていた。本丸に入った八人に二百人の最上勢が襲いかかってきた。
長久の家臣の熊野三郎は五尺八寸(約75cm)の太刀で襲いかかってきた最上勢を切り散らした。また、長沼玄蕃、井澤虎之助らも3・40人を切り散らした。最上勢は八人も討ち取ろうとさらに襲いかかってきた。

本陣にいる白鳥家家臣十挺の大砲を打ち大勢の最上勢を打倒した。

ころを見て白鳥勢は山形城をぬけ天童に向かったが天童にも最上勢がひそんでいたため、行き先を原町村へ向かったところすでに原町にも最上勢がひそんでいた。そこで白鳥勢は萩戸原に向かった。萩戸原で白鳥勢と最上勢が対峙し戦いは三日におよんだ。白鳥勢は多くの最上勢を討ち取った。

その後白鳥勢は無事天童の愛宕山の裏をぬけ谷地城へ戻ることができた。

谷地では熊野三郎を大将として最上勢と対峙し大合戦となった。

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参考      鈴木勲・宇佐美貴子,『天正最上軍記・実録』,2010,町民講座テキスト 
            片桐茂雄 約編,『最上記』,最上義光歴史館,2009.3
            武田喜八郎,「山形殿(最上義光)宛の伊達政宗書状について」,歴史館だより,最上義光歴史館,2005.3

白鳥長久と最上家とのつながり

白鳥家と最上家とは婚姻を通じて強い結びつきがあった。 

白鳥十郎長久の妻は最上義守息女。最上義光の息子義康の妻は白鳥十郎長久の息女である。つまり白鳥長久と最上義光は義兄弟であり、白鳥長久と最上義光は互いの子の義理の親である。 

最上義光とその親の最上義守とが対立したとき、白鳥長久その立場から仲介者として最適だった。

伊達政宗の父の輝宗の妻も最上義守の息女で最上義光の妹の義姫である。白鳥長久と伊達輝宗は最上義守を外舅とする、同じ立場だった。 そのため白鳥長久は伊達輝宗とも良好な関係であり、最上義守と最上義光との対立のときは義守擁護の立場を取った。 

また白鳥長久は最上義守の娘婿であり最上義光の息子の義康の外舅という立場から最上家の内情に通じていたと考えられる。また、最上家の内情は白鳥長久を通じて伊達輝宗のも伝わっていた可能性がある。

白鳥長久の存在は伊達輝宗にとっては重要で、逆に最上家の内情に通じる白鳥長久は最上義光にとっては油断のできぬ存在だったと考えられる。

白鳥長久は最上義光の動きにも敏感だった。もし最上と白鳥とが合戦になったときには最上義光の背後から伊達輝宗が攻めるという懸念もあり最上義光は合戦以外の方法で白鳥長久を倒す手段に出たのではないだろうか。

 

 参考    青柳重美,「最上・白鳥両家の婚姻関係について」,山形県地域史研究,1994.2
           保角里志,『山形の城と戦国世界』,高志書院,2024.8,p72-73

 

 

2025年8月14日木曜日

白鳥家 家臣団

 天正最上軍記に記録されている家臣

四天王
    齋藤久五郎
    齋藤長右衛門(伯耆守大学)
    齋藤市郎左衛門
    青木孫左衛門
家老
    伊藤将監重村
    森谷大膳高友
    槙三郎右衛門国光
    和田六郎左衛門秀友
    森大太郎藤高
    阿部兵蔵盛重
    宇井半左衛門芳村
    槙結城貞
    井澤寅之助吉忠
    細矢大丞信安
    大場八郎左衛門義忠
    岡崎七郎右衛門重行
    後藤善孝芳実
    八鍬五郎左衛門重種
    仁藤大学信盛
    仁藤四郎左衛門芳重
    大久保内膳助秀角
    熊野三郎友重
    塩野熊之助重則
    長善寺右馬正一国
    石川右膳正利定
    黒沼玄蕃保秀

        ほか千軒の家臣がいるが名は不詳。

信長拝謁に同行した家老
    和田六郎左衛門秀友
    大久保大膳信秀
    熊野三郎友重
    四五修理介重則
    長善寺右馬之助国光
    仁藤大学信盛
    森大之進藤高
    仁藤四郎左衛門盛高
    八鍬太郎左衛門重種
    槙結城家貞
    森谷大膳高友
    長沼玄蕃保秀
    伊藤将監重村
        
   家老以外にも三百の臣を連れていた。

山形城に同行した家老
    和田六郎左衛門
    大久保大膳之介
    熊野三郎
    長沼玄蕃
    長善寺右馬正
    井澤寅之助
    塩村熊之助
    森谷大膳

・ほか、鉄砲百挺 大砲十挺 弓五十張 槍百挺を持っていったとされるため、これら武器を扱うだけの臣を連れていたと考えられる。


出典:鈴木勲・宇佐美貴子,『天正最上軍記・実録』,2010,町民講座テキスト

2025年8月12日火曜日

十郎の父「義久」の出自

 十郎の父、義久は茂木家に残る白鳥家系図に「十郎義久尊氏十二代義晴御サケハラ也」という記載がある(出典1)。この文は「義久は足利十二代将軍義晴の御脇腹(側室の子)」と考えられ、つまりは義久は足利十二代将軍義晴の側室の子ということになる。

鈴木勲・宇佐美貴子,『天正最上軍記・実録』より  
足利将軍は義の字を受け継ぐ。最上義光の義も足利氏より下賜されたものである(出典2)。義久の「義」も足利とのつながりがあるためと考える。当時、京で行われた蹴鞠の行事に白鳥の名が出ていること、室町幕府の政所代の蜷川(になかわ)氏に白鳥氏が昔の儀式や作法のことを尋ねたことがあったという記録があることから(出典3)、義久は出羽の地に来てからも京に登ることがあったと考えられる。

出典1: 『河北町の歴史 上巻』,河北町,河北町誌編纂委員会,1992.12,第4刷,p141-142および鈴木勲・宇佐美貴子,『天正最上軍記・実録』,2010,町民講座テキスト,p45出典2: 伊藤清郎,『最上義光』,2016.3,人物叢書,p30松尾剛次,「誉田慶恩『奥羽の驍将 最上義光』の見直しを通じて」,歴史館だよりNo20,最上義光歴史館,2013 
出典3: 保角里志,『山形の城を歩く』,2020.7,書肆犀,p189

 

十郎長久の遺児

十郎の遺児についての伝承は複数残っているがどの伝承も信憑性が乏しい。それらの伝承のうち、長久の次弟の齋藤伯耆守家に伝わる伝承から、次のことを紹介する。 齋藤伯耆守家には先祖は家老だったとつたわっている。 長久の息子は一旦叔父の齋藤伯耆守の養子になって姓を齋藤に変えた後、最上義光の...